残業について熱く語ってみる

以前、「残業はなるべくしないのだが」というエントリを書いたが、普段からなるべく残業はしないようにしている。家でのんびりしたり、家族と会話したり、本を読んだり音楽を聴いたり、会社でできないことはたくさんあるし、例えばプログラムを書いていて気になったことなど、会社ではなかなか集中して調べられなくて(どうしてもいろいろ邪魔が入ったりするから)家に帰って調べたり、専門誌を読んだり、会社じゃなくてもできる仕事も実は結構ある。
また、いつかは親の介護をしなくちゃいけないかもしれないし、女性であれば出産→育児ということもある。残業できなくなる(場合によっては、働けなくなる)ことは常に想定している。運良く仕事を続けることができたとして、たとえ残業できなくても、正社員という立場を失うことなく、時間内にそれなりの成果をあげて、肩身の狭い思いがちょっとは軽減されるように、自分のスキルを高めることも必要だし、残業を美徳とし、残業しないことを認めないような文化は、ぶっつぶしてやらなきゃいけないと思っている。
たまたま、勤務先がコストダウンの一環で残業削減への取り組みを始めて、推進メンバーに任命されたので、残業削減のために、部署ごとに問題点を洗い出して解決策を出して実行してみたり、早く帰ろうキャンペーンをやってみたり、なかなか成果の出ない努力を細々とやっている次第である。
そんな中で見つけた「プロの残業術」という本。著者の長野慶太氏は、部下を取り替えろとか、釣りとしか思えないタイトルの本をいろいろ出されているようで、ノー残業について「残業そのものが『おバカさんの居残り』のように位置づけられている」といった過激な言葉で煽っていたりするが、業務のための「やらされ残業」ではなく、自分を高めるための「私的残業」をせよ、というのがその主張である。
そのことは非常によく分かる。
自分は普段はほとんど残業しないけれど、したい人はすればいいと思う。ノー残業を推進する立場にある人間が言うのもなんだが、たとえば8時間で8の成果を出して帰るより、10時間で10の成果を出して帰る方が、会社のためになるのは当然だし、そのことをとやかく言うつもりはない。
が、今の「残業文化」の問題点は、8の成果を出すのに10時間かかってしまう人が、「10時間働いているから」10の成果を出している人並みの評価が得られてしまったりすることだったり、そのような人たちの「ダラダラ仕事」に巻き込まれてしまうことだったり、1時間で済むことが3時間かかってしまうような業務ルールを改善しようとしないことだったり。それは正に「おバカさんの居残り」以外の何者でもない。そんな「やらされ残業」を、嫌々ながらも受け入れてしまっている人が多すぎる気がするし(正面きって拒否するのも難しいことではあるが)、ライフスタイルの多様化に、働き方の多様化が全く追いついていない。そういうことを少しでもなんとかしたくて、この問題に取り組んでいる。そんなものは所詮理想論に過ぎない、とも思ってはいるけれど、今は、残業手当を払いたくない会社側との利害が一致しているので(残業手当を払いたくないばっかりに、悪知恵を働かせて裁判に負けている事例は枚挙にいとまがない)、せっかくの機会だから、できることはやっておきたい、と思っている。
で、そのようなときに、人を労働時間の長さで評価するような「おバカさんな居残り上司」が、残業礼賛みたいなこの本を手に取ってしまって、残業している奴は自分を高めて会社に貢献する奴だ、などと勘違いをしてしまったら、と思うと、頭痛とめまいが襲ってきて吐き気がしそうだ。日本の多くの企業は、残業派の著者が属してきた世界(エリートが集まる金融機関とか、アメリカの弁護士事務所とか)とは、多分違うんじゃないかと。無駄なこと、効率の悪さが無駄な残業につながっていて、無駄な残業は人を幸せにはしない、とみんながうすうす感じているからこそ、ノー残業やら○○仕事術やらがもてはやされるのであって、ノー残業を標榜するのは、もっと基本的なことからやらなきゃいけない状況だからで、そこを無視して「ノー残業は間違い」だなんて言われると困る。
などとえらそーなことを言うからには、自分の仕事の仕方にもちゃんと流儀があって、残業に関して言えば、人を巻き込む仕事、たとえば何かを依頼するとか、依頼に対する回答をするなどは、定時までに片付けると決めている。社内なら自社の定時の6時、取引先なら5時まで。当たり前だが、ギリギリになってから「今日中に」なんてことは言わない。定時後は、帰るもよし、自分だけの作業に集中するもよし。自分だけの作業でなくても、たとえば何か議論をしていて時間が過ぎるような時でも、それが有意義なものであれば全然かまわない。ただ、つまらない用事を頼まれたりするのは許せないし、それは当日中でないとダメなのか、必ず確認することにしているし、定時後に自分から人にものを頼むようなことは、決してしないと心に決めている。

正しい言葉を選んで、正しく並べること

以前にもちらっと書いたことがあるような気もするが、どういうわけか、どこぞに載せる文章を書いてくれとか、誰かが(主に若手が)書いた文章のチェックをしてくださいとか、頼まれることがやたら多い。若手の書いた文章をチェックして返すと、口では「ありがとうございます」と言いながら、「ここまで細かいかー」と言いたげだったりするのでつらいところだ。いじめているつもりは全くないのだが、いろいろ気になるだけなのだ(こんないい加減な文章を書いているくせに)。
先日、「バカ丁寧化する日本語」という本が目に留まったので、買ってきて読んだ。で、自分の思いを正しく伝えること、言葉を正しく選ぶということについて改めて考えた。
著者の言うように、紋切り型の敬語には心がこもらない、というのは何だか分かる気がする。たとえばメールで「mayukosanと申します」と名乗ったりする。初めての人なら「申します」でもよいだろうけれど、しょっちゅうメールのやり取りをしている相手にも毎回「申します」というのは変だよね、と思うのだが、まるで「申します」と書くのがルール、と頑なに思い込んでいるかのように、毎回「申します」と書いてくる人がいたりする(同様の例が本文中にもあった)。見慣れた名前の人のメールを開けて「申します」と書いてあると、「知ってるよ!」と言いたくなってしまう。形だけの敬語よりも、心のこもった一言が嬉しいということは、往々にしてあるものだ。とはいえ、敬語の間違いはやはり失礼にあたるわけで、やはり注意しなければならない。
敬語に限らず、言葉には意味があるから、意味の違う言葉を使ってしまうと、当たり前だが正しく伝わらない。修飾語の順番や、句読点の打ち方という細かいことで、どの言葉がどこにかかるのか、解釈が変わってくるし、最悪の場合は全く意味不明になってしまう。正しい言葉の意味を知り、正しく並べるということは、自分の思いを伝えるためにも、相手の思いを理解するためにも、必要なことだ。
とはいえ、言葉というものは変化する。アンケート調査などで、圧倒的多数の人が間違った意味で覚えているような言葉について、「正しい意味」にこだわることがそんなに大事か?とも思う。「正しい意味」で認識している人の方が少ないなら、ほとんどの場合に「間違った意味」で相手に伝わってしまう、ってことは、「間違った意味」で使った方が言葉どおりに伝わる、ということになってしまう。どうすりゃいいんだ。
また、友人に書くメール、ブログの文章、取引先に書くメール、報告書、議事録、操作マニュアルなどなど、書く文章によって文体も変わるし、書くべき内容も、用語のシビア度も違ってくる。友人へのメールやブログはニュアンス重視だし、報告書などは事実を簡潔に記載することが重要。書くものに応じた適切な言葉の選び方、文章の書き方というものがある。何年やっていても、毎日が修行の連続である。

■今日聴いた1枚
天使たち/The Street Sliders
The Street Slidersとの出会いは「Angel Duster」だった。初めて聴いて好きになった曲って、何年経ってもやっぱり好きで、時々聴きたくなっては引っ張り出してくる。

ネット上で幽霊と化してみて思ったこと

最近何かと忙しかった上に、ここに書けるような話題もなく、更新が10日も空いてしまった。本は何冊か読んだり買ったりしたので、メディアマーカーの登録だけはしていたのだが、それ以外はRSSをチェックする(ほとんど読まずに既読にする)ぐらいで、mixiもついったーも何もかも放置状態。とりあえず、ネットがなくても死にはしないということは分かった。
そんな数日間を過ごしてみて、自分にとってネット上での活動とは何か、ということをちょっと考えてみた。
mixiは、たまたまリアルの知り合いの方がうちのひとを招待してくださって、せっかくだからどんなもんか見てみよう、と思って始めた。遠くに住んでいる友人同士で、メールを出すほどのこともない近況を伝える程度には役に立っているとは思うが、どういう出会いかはさておき、とにかく何かしら出会いを求めているような、何というかおかしな人も多いし、みんながみんな絵文字を乱用しだして、目がチカチカするので、最近はほとんどまともにチェックしていない。よい出会いもあるかもしれないし、ネットの世界は玉石混淆と昔から言われるけれど、玉を捜すのはなかなか難儀なことでもあり、新しい出会いを、とは思わないまま、すっかり飽きてしまった感がある。
TwitterFriendFeedは、「3週間チャレンジ」に参加するためにアカウントを取ったのだが、最近はメディアマーカーの登録情報と、ここの更新情報ぐらいしか流してなくて、しかもそれも10日も止まっていたわけで、しかも先月からチャレンジ宣言も止まってるし(来月はまた何かやりたいな)、フォローしてくださっている方には大変申し訳なく思っている。こっちはもうちょっと何とかならないかなー、と暗中模索しているところ。
そういえば先日、Twitterのタイムラインを眺めていたときに、アバターを動物などにしているのは何故だろう、というようなつぶやきを見た(いつ、誰のだったか失念した)のだけど、わたし自身もウサギさんの写真であり(その実体は、お気に入りのアレッシィの爪楊枝入れである)、ウサギさんという可愛くておとなしそうなキャラクターは、正直なところ自分の実態とはかけ離れていて、友人などは別にかまわないけれど、例えば単なる職場の同僚とか、さして親しくもない知り合いに、自分の素の気持ちを知ってもらいたいとは思わないわけで、素の気持ちは書きたいけど正体は知られたくないから、というのが答えかな。
それは、ネット上の活動でパーソナルブランディングを、というような考え方とは対極にあって、「王様の耳はロバの耳」的な話を誰かが聞いてくれればいいな、とか、こんな下らない話でも、読んだ人が、そこに書いた何かに興味を持つきっかけになればいいかな、とか、そんな小さい小さい話なので、また間が空いたりするかもしれないけれど、細々と綴っていこうかなと思う次第である。

本とCDを買うのはやめられない

ここ1週間ぐらいの間に、本を4冊、CDを2枚買った。本棚にはまだ若干の余裕があるが、CDの方はもう入れるところがなくて、どうしようかと悩んでいる今日この頃であるが、それでもやっぱりやめられない。
本は、図書館で借りればいいじゃないか、という話もあるが、手元にないと、読み返したくなったそのときに読めないし、返却期限に追われて読むのも楽しくないから、やっぱり買ってしまうのだ。
CDは、ダウンロード販売などを利用するという方法もあるが、やはりパッケージやアートワークも含めて、全てがトータルで「作品」という気がするので、やはり現物で持っておきたくて、買うことになる。
また、それなりにメジャーな作品であれば、借りるという選択肢もあるが、マイナーな作品では不可である。我が家には1500枚以上のCDがあり、そのうち、わたししか聴かないものは6%ぐらいなのであるが、その大半はマイナーすぎてレンタルショップには置いていないどころか、今では入手すらできなかったりする。実は、過去に一度大処分をしたことがあるのだが、そのうちの何枚かを後で聴きたくなって探したところ、いずれも廃盤になっていて、大変な苦労をした。その時から、たとえCDに埋もれて死ぬことになっても、処分はしないと決めたのだ。
しかし厄介なことに、いろいろな技術が進歩して、リマスター盤やらBlu-specやらナントカやら、次々と新しい版が出されて、ジャケットの仕様も変わってしまったりするし、ミックスが変わっていたりもするし、新しいのが出るときには、過去のものは買えなくなってしまうので、それはそのまま持っておかなきゃいけないし、未発表曲がボーナストラックになっていたりするから、新しいのも買わなきゃいけなくなったりする。ちなみに、うちのひとは、The Whoの「ライヴ・アット・リーズ」を5枚も持っていたりするのだが、ボーナストラックが全部違うというひどさである。そういう商売はいかがなものかと思うが、それでもやっぱり、文句を言いながらも、買うのはやめられないのである。

■今日聴いた1枚

DREAM OF LIFE/Patti Smith
これと「peace and noise」が欠けていたのだが、ようやくコンプリート。妻となり母となった後、9年ぶりにリリースされたアルバム。

珍しく伝記を読む

1週間ぐらい更新をサボってしまった。半期末で仕事が忙しかった上に、夢中になっていた本があって、さすがにブログを書く時間までは取れなかった次第。
シルバーウイーク中にNHKで3夜連続で放送されていた白洲次郎のドラマを2日目から見ていたのだが、なんだか興味深い夫婦だなぁと思って、「白洲正子自伝」と、白洲次郎が雑誌などに寄稿した文章を集めた「プリンシプルのない日本」を買ってきて読んでいた。
少し話はそれるが、普段は伝記はほとんど読まない。キュリー夫人とか、ヘレンケラーとか、ナイチンゲールとか、親にしてみれば立派な女性に育って欲しいと思ったのだろうが、そのようなものは小学生の頃には一応読んでいた。とはいえ、「ラジウムを発見した」と言われても、見たことないもんだから、エジソンの発明ほどのインパクトはなかったし、わがままなヘレンよりも、サリバン先生の方がどう考えても偉いとしか思えなかったし、ナイチンゲールあたりは素直にすごいなぁと思えたけど、それを目指そうとは思わなかった。(それにしても、当時はなんとも思わなかったが、偉大なる発見をした科学者に対して、キュリーさんの奥さんという呼び方はあんまりだよね)
その後はほとんど伝記や自伝の類は読まず、立派な女性にもならず、読んだのはオノ・ヨーコぐらい。「白洲正子自伝」は、それ以来10年以上ぶりに読む自伝となった。
しかし、自伝といっても、雑誌に連載されたエッセイらしくて、いろいろなことをとっかかりに、関連の場所を訪ねて当時のことを思い出して書く、という感じで、体系的なものではなかったのだけど、そのやんちゃぶりは充分に伝わって、楽しく読めた。
一方、「プリンシプルのない日本」の方は、戦後の経済状況が悪い中で、政界や経済界は何をやっておるのか、と、時には直球で、時には皮肉で、とにかく攻撃の手を緩めない。「初めてぼやき漫才というものを見て笑ってしまった。鏡に映った自分を見ているようだ」というようなくだりがあって、こっちも笑ってしまったが、それこそ「責任者出て来い」という勢いで、世の中を憂えてぼやきまくっていた。
さらに読んでいて驚いたのは、書かれたのは1950年代〜60年代にかけてのことで、半世紀前であるにも関わらず、今とあまり変わらないようなことが普通に書いてあったりすること。例えば、家でニュースを見ながら夫婦でぼやいてたことと、同じことが書いてある、みたいな。麻生さんや鳩山さんやらの親の世代の皆さんがそろって登場するあたり、歴史のめぐりというか、何か因縁めいたものも感じたりもする。文体はかなり砕けた話し言葉に近い部分があって、最近はあまり見ないような言い回しや漢字も使ってはいるものの、ブログを読んでいるような感じもして、こちらも大変興味深く読んだ。
ちなみに、プリンシプルというのは、原則とか主義とかいう意味の言葉だそうだ。自分の中のゆるぎないもの、とでも言えばいいんだろうか。自分にはそういうものがあるんだろうかと、たまには自問してみるのもいいかもしれない、とも思った。

休日をうまく過ごすのは難しい

シルバーウィークということで5連休だったのだけど、何だかんだで自分の時間というものがあまり取れず、なんだかうまく休めなかったなぁという感じ。
連休の間、うちのひとはやけに元気で、いつもは早寝早起きなのに遅寝早起きで、昼寝もしなかったので、普段、うちのひとが寝ている間にやっている行為、例えばPCに向かって何かをするとか、部屋を片付ける(うちのひとが唯一できない家事が「片付ける」ということで、起きている限り散らかす一方なのである)とか、集中して本を読むとか、それがほとんどできなかった。特に片付けは、かなりストレスを感じるレベルまで散らかっていて、さっき、ようやく少し片付けることができたけど。
家族というものがあると、その意向はやはり最大限に尊重したいものであって、そっちにバランスが偏ることがあるのも時には致し方ない。この貸しはそのうち(多分)返してもらえると思うが、休みが5日もあれば、もうちょっと自己主張してもよかったかなぁと思ったりもする。明日から仕事だというのにこんな時間にブログを書くんじゃなくて(笑)

パティ・スミス:ドリーム・オブ・ライフを観てきた

今日からシルバーウィーク、無事にカレンダー通りの休みを確保して、初日の今日はのんびりと過ごす。5連休を心置きなく休みたいがために、仕事頑張ったから、ちょっと疲れてたのだ。といいながら、多分5日とものんびりと過ごすのだと思うが。せっかくの連休だから旅行でも、なんてことは全く思わず、せっかくの連休だから大掃除でもするか、なんて思ったりするぐらい家にいるのが好きだ。
夕方から、うちのひとと一緒に、パティ・スミスの映画「Dream of life」を観に行ってきた。何故夕方かというと、夕方と夜の2回しか上映がなかったからで、昼間寝ていたからでは、決して、ない。
うちのひとは、ローリング・ストーンズの「シャイン・ア・ライト」みたいな(ちなみに奴は3回も観にいきやがり、そのうち2回付き合わされたが、すばらしいライヴ映画だった)のを想像してたみたいだったけど(予告編がライヴシーンだったらしい)、いろんな場所へ行ったり、いろんな話をしたり、「ロック映画」というよりも「人間ドキュメント」的で、正直なところ途中で眠くなっちゃったりとかするぐらいの感じだった。でもDVDが出たら多分買う。休日に、DVD流しながら家事をするみたいなのが、いいかもしれないと思った。
などと書きながらも、実はパティ・スミスを知ったのは最近のことで。うちのひとがアルバムを2枚だけ持っていて、それをたまたま聴いて好きになり、それから買い集めたのだが、映画のタイトルにもなっている「Dream of life」だけ持っていないことを今日発見した…。

■今日聴いた2枚組

LAND(1975-2002)/Patti Smith
1枚目はヒット曲、2枚目はデモとライヴ音源を中心に収録したベスト盤。ベスト盤は便利だけど曲者だなぁ、と思うが、その話はまた別の機会に。